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半田広宣特別コラム

ポストコンピュータ時代の日本人



日本語

日本語は主語がなくても理解し合える

「日本語には主語がない」とよく言われる。例えば、新幹線に乗っているとき、窓から富士山が見えたとしよう。そのとき、日本人なら「あっ、富士山が見える!」 と言うのが普通だ。しかし、英語では、

「Oh! I see Mt.Fuji!」

と言う。また、英語の場合、あえて富士山を主語に持ってきたりして、

「Oh! Mt.Fuji can been seen!」

なんて表現は口語として硬すぎるし、実際、そんな言い回しをする欧米人もいない。
中国語だって「哦、我可以看到富士山」となるはずだ。日本語との違いは何か。それは「I(アイ)」や「我(われ)」といった一人称代名詞が主語として入っているということだ。

日本語には主語はない。しかし、外国語一般には主語がある。この違い、よくよく考えてみると不思議だ。というのも、日本語で「富士山が見える」と言ったとき、「誰が」という主語が省略されている。いや、これは省略なのだろうか。実際、新幹線の友人たちが同席していれば、彼らも「あっ、ほんとだ、富士山が見える!」 と次々に口にすることだろう。

そこでは「誰が」ということがまったく問題にされることなく、言葉が交わされているのである。こうした日本語の特徴は文学の世界でも普通に見られる。川端康成の「雪国」(新潮文庫)のイントロもその一つだ。書き出してみよう。

「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」

これも先ほどの「富士山が見える」と同じ雰囲気を漂わせていることが分かるはずだ。この文の内容の主語は一体なんなのだろうか。列車だろうか、それともそこに乗っているこの小説の主人公なのだろうか。正確に情景を描くなら、ほんとうは次のように表現されるべきだ。

「列車が国境の長いトンネルを抜けると、そこは雪国であった。」

つまり、前半と後半で「列車」と「そこ」というように、主語が二つに分かれて隠されているということだ。

このように日本語は通常、主語を明確に示さないので、言葉の受け手自身が想像力でいろいろと穴埋めしなくてはならない。もちろん、私たち日本人はそんなことを意識することなく、無意識のうちにその場の状況を想像して、会話を普通に成り立たせている。しかし、これが外国人にはかなり難しい。細かいところまで言葉にして説明してあげないと、彼らはそのニュアンスをなかなかつかめない。
よく「日本人は曖昧だ」「物事をはっきり言わない」「自主性がない」と彼らが批判するのも、日本語のこうした特性に原因がある。

日本語を使う日本人がやるべきこと

話は変わって、最近、ネット上で日本の経済競争力の低下を見て、「日本人の劣化」を嘆く人たちの言葉をよく耳にする。確かにデータを調べると、たとえば国民1人当たりのGDPはかつては世界第2位だったものが現在は第24位へと後退。成長率も低く、今では韓国や台湾にも抜かれている。少子化で人口も年々減ってきているわけだから、今後もっと落ち込んでいくことは間違いない。しかし、これはほんとうに日本人が劣化したせいなのだろうか。

確かに、20世紀の後半は日本は経済大国として世界的に強い競争力を誇っていた。自動車産業を始め、電機や電子産業におるけ技術力は群を抜いていた。
しかし、21世紀になり、産業の主軸がインターネットを中心としたIT系に移るや否や、その自慢の技術力も経営力も凋落の一途をたどり、2021年現在、世界的な競争力を持った企業は激減した。長らく日本のトップ企業であったTOYOTAやソニーですら、世界経済の急激な変化についていけていない感がある。

あれほど群を抜いていた日本の経済的能力はいかにして衰退したのか。もちろん、そこには個的才能を伸ばす土壌のなさ、既得権益に固執する保守性など様々な理由があるとは思うが、私自身、事の本質は日本人とコンピュータとの相性の悪さにあるような気がしてならない。

つまり、先ほど言った主語を持たない日本語であるがゆえに、日本人自体がプログラム作成やデータ処理といった論理的な思考作業に向いていないのでは、と思うのだ。冷静に考えるなら、今まで日本人が誇っていたのは「物」造りに要した身体的、右脳的思考であって、コンピュータ技術で必要とされる論理的、左脳的思考ではなかったということである。

こうした日本人の特質を見ずに、やみくもにGAFA並みの企業がなぜ日本に一つもないのかと嘆いても仕方ない。確かに現在のグローバル経済の視点で見るなら日本は「遅れをとった」と言えるだろうが、日本人に合っていないのだから別にそんなものは諸外国に任せておけばいい。いずれ、AI技術がより発達してくれば、俗に言う技術的特異点へと達し、それこそコンピュータ自体が新しいプログラムを自分自身で生み出すような時代がやってくることだろう。

人間の論理的思考などそのときには用無しになる。そのようなポストコンピュータ時代を今からでも予想して、日本はそれこそ日本語の特性に合った独自の方向で、物づくりや人作りのノウハウを輸出して行ける国になればいい。ポストコンピュータの時代においては、主語を持たない日本語を母国語に持つ日本人の役割は必ずやとても重要なものになってくる。

なぜなら、主語がないということは、人間という存在がもともとは意識の奥深いところで一つに繋がっている存在だということを意味するからだ。その意味で言えば、日本人にはその繋がりの感性がどの国の人々よりもDNAの奥深くに刻み込まれている。「和」でも「自他同心」でも表現は何でもいい。今こそ日本人の弱点とされている「曖昧さ」「不明瞭さ」「自主性のなさ」を長所へと反転させて、人と人、人と自然が互いの垣根を超えて一つに結びつくような新世界のグランドデザインの創造へと取り掛かるべきだ。いずれ必ず、世界中がそのデザインを求めにやってくる。

2022年3月-ブロッサムNo.87

自然のサイクルに同調するライフスタイルへ

ウィズコロナ時代の光と闇

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半田 広宣

半田 広宣Kohsen Handa

福岡県生まれ。1983年心身を健康にする未来型健康商品の開発・販売を始める。株式会社ヌースコーポレーション代表取締役。現在、武蔵野学院大学スペシャルアカデミックフェロー(SAF)。

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