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半田広宣コラム 「ヌースの時間」

戦争という名の病



戦争という名の病

終戦記念日に『ハンナ・アーレント』という映画をDVDで観た。物語は元ナチスの親衛隊幹部であったアドルフ・アイヒマンが、1960年にイスラエルの諜報機関モサドの手によって拉致されるシーンから始まる。アイヒマンは第二次世界大戦中、ヒトラー政権のもとで数百万のユダヤ人たちを強制収容所へ移送する責任者だった人物である。拉致後、アイヒマンはイスラエルへと護送され、戦争犯罪の責任などを問われて裁判を受けることになる。

当時、ユダヤ人の女流哲学者として名声を得ていたハンナは、新聞でこのことを知り、裁判の傍聴を強く希望する。周囲の反対を押し切りハンナが目にした生のアイヒマンには、多くの人の命を奪った冷酷な権力者・弾圧者の面影はなく、仕事に忠実なただの役人にしか見えなかった。ハンナはあるがままの客観的事実を記事に書いていく。そしてその中には、ユダヤ人指導者の中にも収容所での虐殺に手を貸した者達までいたとする驚きの見解までもあった。

結果、ハンナは全世界のユダヤ人たちの怒りを買うことになる。同胞を収容所送りにした当の責任者を厳しく糾弾しないどころか、被害者であるユダヤ人の同胞の責任を問うように受け取られたからだ。
ここで大切なのは、ハンナは決してアイヒマンを擁護したわけではないということだ。彼女もまた収容所に送られた経験を持ち、九死に一生を得た一人である。私情ではナチスを心底憎んでいたことだろう。しかし、ハンナは哲学者としての自らの信念に基づき、批判を恐れず、冷静に事態を分析し通したのだ。

ハンナは言う。アイヒマンはただ上の命令に従っただけである。彼の「思考」はもはや停止していた。ナチス上層部の非道な弾圧命令をそのまま実行したアイヒマン個人の「悪」には、何も深さがなかった。そんな単なる役人体質の凡庸な人間を思考不能な弾圧者へと変えてしまう「戦争」という体制こそ、最も恐ろしい悪にほかならない。
ハンナはアイヒマンのような深さを欠いた行為を「悪の凡庸さ」と名づけている。そこに敵も味方もあろうはずがないのだ、とハンナは主張したかったのだろう。

21世紀となった現在でも、イスラエルでは終わることのない憎しみの連鎖が続いている。今年の夏に入って再燃したイスラエルによるガザ地区への攻撃ではすでに千名以上もの犠牲が出ている。当然、イスラエル国内には戦争に反対する人々もいるだろう。しかし、長年取り憑いた集団の感情というものが自由な言論を許さない。ハンナに向けられたものと同じ圧力が、個人の声を容赦なく封じ込めている。
パレスチナ側にしても同じだろう。イスラエル軍はテロ施設に対する攻撃を前もって予告しているという。しかし、パレスチナ側は一般市民や子供たちを避難させず、むしろ、武器庫や作戦拠点を民家に散在させ、市民が盾になることを強制しているとも聞く。ここでもまた戦争という不条理が、それぞれの「悪の凡庸さ」を蔓延させているということだろうか。

ひとたび戦争が始まると、個々人の想いなどは軽く吹き飛ばされ、集団の情念の束がウイルスのように猛威を振るい、人々は思考を停止してしまう。わたしたち日本人にもその苦い記憶があるはずだ。戦争へと歩を進めようとするどんな些細な一歩にもわたしたちは細心の注意を払うべきである。「悪の凡庸さ」の感染ほど恐ろしい病はないのだから。

2014年9月-ブロッサムNo.57

死と共に生きるということ

一人のソングライターへのエール

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