半田広宣コラム 「ヌースの時間」
去る10月22日、天皇陛下の皇位継承を内外に示す中心的儀式「即位礼正殿の儀」が皇居宮殿にて厳かに執り行われた。
最近はほとんど地上波から遠ざかっている私も、さすがにこの日ばかりはTV中継に見入ってしまった。儀式では、古式豊かな装いで身を包んだ皇族の方々が見守る中、天皇陛下がご即位を公に宣言し、国内外の代表から祝福を受けられた。
「即位礼正殿の儀」は 平安時代の初期の様式に由来を持つものだそうだが、その厳粛で壮麗な雰囲気に日本という国家の伝統を改めて認識させられた人たちも少なくなかったのではないだろうか。
私の場合、高御座(たかみぐら)や幡旗(はんき)など、儀礼の様式が持つ美しさの中に時間を超越した神聖な精神の息づきを感じた。こうした伝統はとても大事に思えるので、後世にも正確に継承していって欲しいと願うのだが、戦後、皇室令は全廃されており、儀式の詳細を規定した法令は存在していない。とりあえずは、憲法が許容する範囲で従来の様式が踏襲されているらしく、5月に執り行われた上皇即位の儀なども旧皇室令に則って実施されたようだ。
時代の流れもあってか、最近は憲法にある政教分離の原則に従って国家主催の儀式から神道に由来する内容を除去していくことが求められている。詳細は分からないが、今回の即位の礼にしても、儀式を彩る旛の図柄などが変更され、本来の意味を欠いた意匠に変えられたそうだ。
もちろん政教分離に異論を唱える気はないが、神道を宗教と感じている日本人は少ないのではないだろうか。政治的な権力に利用される以前の本来の神道(古神道)とは、読んで字のごとく「カンナガラノミチ」のことを指し、それは本来、私心を持たない人間本来の道(ミチ)のことを意味している。そして、そのミチは森羅万象に通じており、周知のように、神道は自然そのもの中に八百万(やおよろず)の神を見るのである。
そこには西洋の一神教のような神に対する信仰の押し付けはない。つまり、神道は人間に信仰を強要はしないし、拝もうが拝むまいが自由なのだ。もし宗教であるとすれば、なんと優しい宗教か(笑)。
そのような神道本来の精神を歪めてしまったのは近代の日本だ。明治以降の神や天皇のあり方は、時の権力者たちによって無理矢理、西欧風の「一神と王」の関係にアレンジされ、神道は国家神道へと変えられた。その体制は第二次世界大戦の敗戦まで続き、それを通して神道はあたかも宗教的イデオロギーの一つのように見られるようになってしまったのだ。
繰り返すが、神道とはその字が表す通り「カンナガラノミチ」である。その教えは、私たちの生活の中に様々な形で溶け込んでいる。
例えば、私たちは赤ん坊が生まれれば、お七夜を行い、生後ひと月経てばその土地の氏神が祀られている神社に産土詣(うぶすなもうで)を行う。そのあとは、ご存知の七五三や節供のお祝いだ。これらはすべて神道由来の通過儀礼である。
武士道や茶道、花道、剣道といった日本特有の種々の「道」という考え方も、また「ミチ」に由来する。ミチには必ず形式としての型(カタ)がつきものだが、これもまた一つの儀礼と言っていい。日本人は一般に無宗教と言われるが、生活や風習の中に「ミチ」の思想を充満させているのである。
天皇とはその意味でいうなら、国家の象徴などではなく、「ミチ」の象徴だ。そして、言うまでもなく、こうした「ミチ」は私たち一人一人の心の中に存在している。そのような新しい眼差しで、天皇陛下の即位を祝いたいものだ。
2019年12月-ブロッサムNo.78
Blossomに込めた想い
「分かりにくい」を経験する大切さ
半田広宣コラム一覧へ戻る
福岡県生まれ。1983年心身を健康にする未来型健康商品の開発・販売を始める。株式会社ヌースコーポレーション代表取締役。現在、武蔵野学院大学スペシャルアカデミックフェロー(SAF)。