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半田広宣コラム 「ヌースの時間」

死と共に生きるということ



死と共に生きるということ

9月27日の昼前、快晴の秋空のもと、登山客で賑わう御岳山が突如、噴火した。犠牲者の方は50名以上を数え、火山噴火によって奪われた命の数としては戦後最悪の事態となってしまった。頂上付近で被災され亡くなられた方の多くは火山弾の直撃を受けており、一瞬の出来事だったろうと言われている。この場を借りて、お亡くなりになられた方々のご冥福を心よりお祈りしたい。

後日、このニュースを受けて、子を持つ弊社スタッフの1人が「人の命というのは、ほんとに分からないものよね。みんな、昼には頂上でおいしいお弁当を食べようと思っていただろうに」と悲しい顔でつぶやいていた。その言葉を聞いて、自分がもし当事者だったらと考え、わたしの頭の中で「死」の一文字がグルグルと回り出した。

あの晴天の朝に、一体誰が、数時間後に起こる噴火を予想し得ただろう。私達が生きている上で不慮の事故による予期しない死というものはどこにでも潜んでいる。でも、普段人はそんなことは考えない。いや、予期せぬ死どころか、予期できる死についても考えまいとしてしまう。今を必死に生きている人ほど、自分自身の死について、思いを馳せる時間は少ないのではないか。

しかし、本当にそれでよいのだろうか。「死ぬのはいつも他人」という言葉があるように、身内の不幸など、死を身近に感じる機会というのは、いつも他人に起こる事としてしかやってこない。しかし、その時は多少死を意識はしても、日常生活に戻ると「自分は死ぬはずがない」と思い直す人は多いと思う。

これは現代人に、死は怖いもので覆い隠すべきものだ、という考え方が根付いているからかもしれない。TVのニュースでも死体は映されないし、昔はよく見た道路端の犬猫の死体すら、あっという間に片づけられ、都市の生活の中で死をイメージさせるものはほとんど姿を消してしまった。災害での人の死も、情報過多の現代では、すぐに過ぎ去ったこととして扱われてしまう。

死とは、他人の死などではなく、自分自身の死のことをいうのだから、わたしたちは死を身近に意識しながら生きることも必要なのではないか。「私は死なない」という死を拒否するような感じ方ではなく、いつか突然来るかもしれない死を肯定的に受け入れ、今この「瞬間」を一生懸命生きることを常に意識する必要があるのではないか。

余命宣告を受けたガンの末期患者が自分の死を目前に意識するようになって、生きるということの素晴らしさを初めて知るという話はよく聞く。その中には、今を精一杯生きる決心をしたことによって、逆に生命力が蘇り、余命が大幅に伸びた、という人もいる。わたし自身、そういう経験を持った人と何人も出会った。自らの死をダイレクトに感じ取ることで、逆に生が光り輝き、生命の力が蘇ることがあるとすれば、わたしたち現代人はあまりに死に対して間違った接し方をしてはいないだろうか。

仏教には「生死不二(しょうじふじ)」という言葉がある。生と死は互いに別のものではなく、表裏一体としてある、という意味だ。素晴らしい「生」というものがあるなら、当然素晴らしい「死」というものがあるはずだ。私達が一生かけて経験することを「生」と呼ぶならば「死」とは「生」を経験しているものの別名なのかもしれない。

2014年12月-ブロッサムNo.58

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