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半田広宣旧コラム 「ヌース的人生のススメ」

ヌース的な初盆



今年のお盆は去年秋に亡くなった母の初盆となった。8月13日の夕方、家族が一同に集まりお墓参りをし、先祖の霊と共に今年から新しく仲間入りした母の霊をみんなで出迎えた。墓前で合掌している間、母の臨終の際の記憶が甦る。

母の死はわたしにとってとても不思議な経験だった。唯一の肉親の死であるから悲しみがこみ上げてくるのは当たり前なのだが、どうしても母の死を受け入れることのできない自分が頭の片隅にいた。それは母の死を否定したかったからではない。母が死んだという実感がどうしても湧いてこなかったからだ。虚空に目をやれば母の笑顔や泣き顔が目に浮かんだし、どこからともなく母の声が聞こえてきたりもした。そしてそれは今でも変わってはいない。

お盆の正式名称はもともと盂蘭盆会(うらぼんえ)といい、これはインドのサンスクリッド語のウラバンナという言葉から来ているらしい。ウラバンナには「逆さ吊り」の意味があるそうだが、これは死後、餓鬼道に落ち逆さ吊りにされ苦しんでいる死者の魂のことを指すという。死者の魂に多くの供物を捧げて心から供養すれば、その功徳によって彼らを極楽往生させることができるということから、お盆の墓参りの慣習が生まれたということだ。

由緒ある仏典に異論を挟む気はさらさらないが、いかんせん、この解釈はどうも個人的にしっくりとこない。これではお盆に帰ってくる先祖の魂たちはすべて極楽往生していないということになってしまうではないか。この「逆さ吊り」には、別に隠された意味がある。私にはそう思えてならないのだ。

私の持論からすれば、私が会っていた生前の母こそが逆さ吊りにされていたのであって、死後、私の心の中に住み続けている母こそが、そうではない本当の母ではないかと感じる。

ここでいう「逆さ吊り」とは、別に生前の母が苦しんでいたという意味ではない。私の心の中に今も残っている母の方が母の実像のような気がしてならないからである。人はそのほとんどが母親の眼差しの中で鏡像として育つという。かく言う私もまた例外ではない。ならば母もまた私の眼差しの中に自分の姿を見ていたことだろう。ちょうどレンズが実像を虚像へと転倒させるように、私が自分の眼差しの中に見ていた母の像は、私という鏡に映し出された鏡像だったというわけだ。

その意味で母の実像は私を包み込んだその眼差しそのものの中にあるように思えるのである。とすれば、私の中でその眼差しが感じ取られている限り、そこに母の魂は生きているはずである。そして、生前逆さ吊りにされていた母は、そこでは真っすぐな正立像となって私に優しく微笑みかけていることだろう。亡くなった人は生きている人に想起されたとき、生者として蘇っているのだ。供養とはその意味で亡くなった人への想いと共に、今を生きることにほかならない。

まもなく母の一周忌がやってくる。またお墓に行こう。

2009年9月-ヌース通信No.37

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