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半田広宣旧コラム 「ヌース的人生のススメ」

災害からの復興



去年の暮れに起きたスマトラ沖地震による津波の被害は、死者20万人を超える歴史的な大惨事となった。犠牲者の方々のご冥福を心からお祈りするとともに、御遺族の方たちにもこの場を借りて慎んでお悔やみを申し上げたい。

津波発生から早二ヶ月、遺体の回収作業もすでに打ち切られ、被災地では復旧活動が急ピッチで進んでいるようだ。被災地の一つであるタイのプーケットでは早くもビーチを再開したと聞く。しかし、こうした災害現場の復旧の迅速さを見るたびに、わたしは少々複雑な思いにかられる。現地の人々の経済的困窮を考えれば、元の活況を一日も早く取り戻してもらいたいと思うのはやまやまだが、その反面、あの地がまた元のリゾート地に復元されるのかと想像すると、何ともやり切れない気分になるのである。

文明には恐ろしいほどの回復力がある。それは人の意を介することなく、ただ、復元することだけを目的にまるで機械のように生き返る。過去、どれだけの都市が災害や戦渦によって破壊されてきたことだろう。しかし、その度に都市は不死鳥のように蘇り、ときには被災以前よりもはるかに大きな発展を見せる。東京しかり、広島しかり。神戸しかり、9.11のニューヨークしかり、だ。廃虚からの復興は、当然、誰もが望むことであり、それは被災者たちの身になれば尚更の話である。わたし自身もし当事者であれば、それこそ再建のために全力を尽くすに違いない。

しかし、こうした異常なまでの都市の再生力を手放しで賛美するわけにもいかない。レヴィナスというフランスの哲学者は、この異常な生殖力を指して
――修復された街並は無数の死を隠し、穿たれた不在を見えなくさせる。そして、いずれ「あらゆる涙が乾いていく」――
と評した。復興を目指す人々にとって被災の悲しみを払拭するのは必要なことだ。しかし、それは必ずしも被災の経験を忘れ去ることを意味するわけではない。
すべてが何もなかったかのように再現されるくらいであれば、いっそのこと、被災跡には指一本触れず、そのままのかたちで遺すという英断があってもいいのではないのかとも思う。そうすれば、わたしたちは痛ましい過去を常にある現在として意識できるし、また、そこで失われた尊い生命のことを生涯忘れないですむ。

おそらく、プーケットも数年後には何事もなかったかのように、リゾート地としての繁栄をかつて以上に再現してみせることだろう。確かにそれは喜ばしいことではあるが、一方で、その風景の奥底には資本という無慈悲な化物が宿っているということも深く認識しておく必要がある。確かに災害からの復興は誰しもが望むことだ。しかし、ただ経済的な力によって表面的に街の景観を再興したとして、そのことに一体どれほどの価値があるというのだろうか。

人と人とのつながりによって街は生まれてきた。人あっての街であり経済である。街や経済あっての人なのではない。人と人との心のつながりによって生まれる真の経済は時間や距離を超越し、生死さえも超えた全く別の場所で永遠の都市を築いていくことができる。言うまでもなく、そうした都市は天災や戦災に見舞われようが決して壊れることはない。わたしたちに今、もっとも望まれているのは、それこそ、そういった永遠の都市を、そこかしこに復興することである。

2005年3月-ヌース通信No.18

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